『怪談短歌入門』書評~怖さには構造がある、短歌篇~
2015/12/02
「怖いものと短歌は相性が良い」
そう思ったのは谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を読んだ時だ。陰影の積極的な利用にこそ日本的美学があり、それは陰影をなくしていく過程を経てきた西欧的感覚とは異なる発展を遂げたという趣旨が書いてあるこの本。
陰翳礼讃、隠すことの美学
あまりにも明快で納得させられてしまう文章の運びは、様々なものに応用できてしまう危うさは存在するものの魅力的だ。
例えば、お化けについての引用。
昔から日本のお化けは脚がないが、西洋のお化けは脚がある代りに全身が透きとおっていると云う。そんな些細な一事でも分るように、われわれの空想には常に漆黒の闇があるが、彼等は幽霊をさえガラスのように明るくする。その他日用のあらゆる工藝品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。銀器や銅器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり非衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。部屋の中もなるべく隈を作らないように、天井や周囲の壁を白っぽくする。
海外におけるゴシック小説はどうなんだ、と批判はいくらでも出来る。
しかし、重要なのは陰を愛でてきた日本の特質に関する議論は現在でも実感としてわかるということだ。
定型詩には、隠すことの余地が存在しているのでは?
谷崎は陰影が徐々になくなっていることへ哀悼の意を表明し、結論あたりで日本的美学を積極的に文学へ復活させるべきだと述べている。だが、わたしは隠すことによる陰の方法は今も定型詩という形式に素朴に存続し続けてるのではないかということを考えた。俳句も短歌も隠すことによって読者に余韻を持たせる傾向がある。その余韻にはポジティブなものだけではなく、背筋がゾクッとする負の性質をもったものも多い。
これが冒頭の意見の理由である。
そのことを頭の片隅において短歌を読んでいくと、いくつかの「怖い」作品がある。
- 「力まかせに布団をたたく音がする、いや布団ではないかもしれぬ」松村正直
- 「いじめには原因はないと友が言うのの字のロールケーキわけつつ」江戸 雪
- 「焼き肉とグラタンが好きという少女よわたしはあなたのお父さんが好き」俵万智
いずれの短歌を見ても「怖い」という日本語に様々なニュアンスが入っているのがわかるだろう(情念の溢れる思い、非日常に主体が揺らぐ怖さ、不穏さの表し方など)
けれど、これはあくまで生きている人間の怖さである、人間を越えたものに関する短歌で「怖さ」を題材の取り上げているものはあまり見ない。もし短歌という形式に人外の出来事や物をかけ合わせたらどうなるのか?
それを試みたのが今回紹介する『怪談短歌入門』(東直子・佐藤弓生・石川美南)である。
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怪談短歌の紹介
本書ではtwitterを使い集められた「怪談短歌」を三人の歌人が品評してその怖さを解説していく。議論の過程で投稿作品が持つ傾向、そもそも怖い「俳句」と怖い「短歌」はどう違うかなどのいくつかの重要な論点が出てくるが
まずは、集められた作品のいくつかを紹介してみよう。
- 「悪夢から目覚めてママに泣きつけばねんねんころりあたまがころり」(中家菜津子)
- 「僕の名のすぐあとに君の名があったんだ黄ばんだ貸出カードすべてに」(沼尻つた子)
- 「独り身の遅れた春に野天湯で舌の冷たい女と浸かる」(廻転寿司)
これらは実際に自分が読んで「ゾクッ」とした短歌だ。
②の映画「『耳を澄ませば』を若干の悪意をもって解釈したような短歌はまだ人間世界の範疇に属している。
それに比べ①と③は明らかに「怪談短歌」という形式の公募以外では見かけない作品だろう。
特に③のゾッとする感じはすさまじい、春の湯という一見暖かな情景を扱っているのに「舌の冷たい」というありえない一語によって「裸」であることの寄る辺なさが際立ち背後にある春の肌寒さが表れてしまっている。「舌の冷たい」という状況を「既に」知ってしまい、もう戻れないところまで来ているというような怖さを感じる。
怪談短歌の性質をもっともあらわしている「ねんねんころり」
そして①に関しては「怪談短歌」の性質をもっともあらわしている作品であり本書の中で一番歌人による言及が多い。
そもそもの子守歌が持つ日本的怖さ、夢から覚めた先が悪夢という連関的構造と、その形式と響きあうリフレインの巧みさ。
怪談短歌で集められた作品もこのリフレインの構造をもつものが多かったと東直子は述べている。
本書の後半の議論では、短歌の構造そのものが俳句と違い下の句があるためリフレインしやすいという意見が付け足される。
(私見だが、怪談には繰り返しにより怖さを出しているものが多く、それがおそらく短歌の構造と組み合わさるから上手い具合に調和するのだと思う)
加えて俳句と短歌の違いに関し佐藤弓生はこのように言う。
俳句は物をポンポンおいていく、短歌でそれをやるとがしゃがしゃして分散してしまう
これは投稿されたゾンビの短歌に関しての意見だ、具体的な物を下の句まで配置すると物が分散してしまうことについて短歌と俳句の性質にまで言及していて重要な意見だ。
同じゾンビを扱った短歌でも
「購った少女の身からぼとぼとと肉と金具が床にこぼれる」
が評価される。物を適切に配置すること、そこにどんな物体を置くかが個人的発見であり重要だという。
つまり怪談の意味内容だけ移し替えても駄目であり、ただ悪趣味なだけでは怪談短歌として怖くないことが本書の中では何度も言及されている。
トラディショナルな怪談のイメージをそのまま使って器を移し替えればいいというものではない(p21)
カニバリズムについての短歌が多く寄せられたことに関しての意見である。このあたりの議論は別の文脈に移し替えてもよくわかる。例えば人を食べる映画でも、人を食べる小説でも、それは出来事として起きているだけでそれ単体ではこっちに迫ってこないのだ。人食いはただの事実である、事実を「狂気」と提示されても感情が冷めていくだけなのだ。
感情の型がないからこそ、個人の「怖さ」という単位を突き詰めるとそこにその人固有の個性が出る。
「怪談短歌」の魅力はここにあるのだろう。
怪談短歌という枠を設けたことでかえって作品が自由になっているんじゃないかということなんです。私もいろんなとこで選をしていますが、一般的な公募、たとえばラジオとか新聞など年輩の方が応募をされるような公募だと非常にテーマが真面目なんです。戦争体験とか、農業とか、子育て、親の介護、まあいろいろとありますけどとにかく観点が新聞的というか似たような短歌になってしまう。(p106)
新聞歌壇でこういうのはだめだろうと予防的に(調べて)短歌を作ってしまうのに比べて「怪談短歌」はまだまだ自由だ。ここにあげたのはいくつかの例で、まだまだ怖い短歌がこの本にはたくさん収録されている。
そのなかで最も怖いのは、一読して意味が分からなくても解説されて「気づく」、後で「うわっ・・・」となる怖さだろう。一流の歌人による解説は、その辺がどこか一流の怪談噺家に似ている。
最後に解説によって怖さが増した短歌を上げて書評の締めとする。
・「宝くじ」「地獄」「くちばし?」「しゃれこうべ」「・・・ベンチ・・・」「血」「・・・・・ち、千葉」「ばらばら死体」(桔梗)
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