【私的印象批評】底を求める/書くことの業『赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉、文春文庫)
2015/11/27
車谷長吉の直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』は、主人公である「私」が数年前に地下鉄神楽坂駅の伝言板で見つけた「平川君は浅田君といっしょに、吉田拓郎の愛の讃歌をうたったので、部活は中止です。平川君は死んだ」という言葉と、十数年前に阪神電車西元町駅で見つけた「暁子は九時半まであなたを待ちました。むごい」という言葉が並列されて冒頭に置かれている。
これは本筋とは独立した一つのエピソードだが、どちらも片方だけが取り残されてしまった誰かの悲しみが漂っていて、この喪失感はここから「私は二十代の終りに東京で身を持ち崩し、無一物になった。以降九年間、その日暮らしの、流失の生活に日を経た」という文章で始まる「私」=生島与一の物語の終わりまで響いていく。
唐突だが、ここで私の話。
私がこの小説を読んだのは、大学を一年留年して卒業するも行く当てがなく転がり込んだバイト先の倉庫であった。仕事をまずまずとこなし、ますます健康になる身体とは異なり、休憩時間には外でセブンイレブンの100円珈琲を飲んで、ビル街の空き地で空を見る日々は何か満たされない心と将来の不安で溢れていた。
中二病と笑わば笑おう。
だがその心持があったからこそ、20代の初めにではなく20代の終りに身を持ち崩したという主人公の独白のどうしようもなさに畏怖した。畏怖とは怖れと共に敬いの言葉でもある。底の底を求める生島の欲望、しかし決してそこにはたどり着けないであろう敗北の予感に私はこの物語の虜となった。
「ブリキの雨樋が錆びついた町」尼崎にたどり着き、焼き鳥屋で使うモツ肉や鶏肉の串刺しをする仕事で何とか生き延びることが出来た生島は、寒々とした部屋で一人臓物を突き刺し、酒を飲み黴臭い寒い布団で眠る自らのことを「魂の腑抜け」「ただの無能」と卑下するが、しかし底の底を遍歴し「ここではないどこか」を求める彼は、アパートの闇の中から徐々に現れる「ここでしか生きられない」人々に翻弄されていく。
向かいの部屋にいる彫師の人の肌へと針を突き刺す仕事、隣の部屋から情事の際に発せられる老いた娼婦の呪詛にも似た声、それぞれの「業」を生島は自らが鶏肉の臓物を刺す行為、自らが求める言葉(主人公は小説家である)との対比をする。
だが彼に対して事あるごとに、あんたはここで生きる人ではないと雇い主でもあるセイ子ねえさんは繰り返し、このように言う。
「あんた口ではそなな言うて、私はあかん男です、言やはるけど、誰でも口先と実際とは違うでな。あの女は口先でだけであの念仏言うとんのとは違うでな、あの女に銭払て抱かれに来る男かて」
アパートの住人で彫師の娼婦でもあるアヤ子もまた、「口先」だけではない言葉を持つ女性であった。生島との情事の際に彼女が発する言葉、存在そのものに詩の言葉の重みがあり危険を冒してまでも生島はつながりを持つ。そして彼女の兄が組のお金を使いこんでしまい、身を売られることになったとき、彼女はそれを拒否して生島に「この世の外へ」と連れ出していってほしいと頼み生島は再び漂流の決意を固める。
だが血を吐くような底の中で生きてきたアヤ子とそれを言葉で思考せざるを得ない生島との間には<魔>とも呼ぶべき断絶があるのだ。彼の優しさや弱さにアヤ子は言う、「あんたは、あかんやろ」と。そして「赤目四十八瀧」での心中に失敗した帰りので電車でアヤ子は急に外へと走りだし、博多に行くと言って生島と別れる。
彼女が博多に行くということ、それは借金の肩代わりに自らの身を売るという決断でもある。ドア越しに生島とアヤ子は「途切れ」、その時見た彼女は「何かおそろしいものを呑み込んだ静止した目だった」
その後、何年かの月日を経て生島が再び尼崎を訪れるも、セイ子ねえさんが働いていたスナックもいまやなく、住んでいたアパートにでは誰も見つけることができないまま「私は闇の中に立っていた」という一文で物語は幕を閉じる。冒頭の誰かと繋がれなかった喪失感を伴って。
再読しておそろしいことに、初読よりさらにこの主人公の感覚が理解できた。自分と彼らの断崖を知りつつも、その魔を見据え、どこまでも世界を言葉で考える存在であることの業。しかし誰もが底を体験したことで小説を書けるわけではない。『赤目四十八瀧心中未遂』はその底にあるものに到達できないという諦念と、その闇を見据え書ききる力量と拡張高い文体を持った車谷長吉だから到達しえた世界なのである。
最後に、黒岩重吾の直木賞選評で締めとしたい。
「「赤目四十八瀧心中未遂」一作を推した。」「どういう世界にあっても人間が生きねばならない物悲しい呟きに似た呻吟が、行間から低音の旋律となって私に纏いつき、狂おしいほど私を昂揚させまた痛めつけた。」「彫眉の女であったアヤ子が主人公に惚れ、心中未遂現場まで連れて行った気持も納得させられる。」(直木賞.comより引用)
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