政治的合理主義について、映画『リンカーン』を見て思うこと
映画の冒頭、監督のスピルバーグがこの映画の思想的背景を説明する。奴隷制をめぐりアメリカは北部と南部に分かれ戦争を繰り広げた云々。そして画面はフェードアウト、続いて戦争の生々しい描写が映し出される。銃剣で背後から敵を刺す兵士、その兵士を刺す兵士、乱戦の中で次々に死体が積み重なっていく。泥にまみれて。
場面は変わり、黒人兵の報告を聞いている一人の男の後ろ姿が映しだされる。
彼こそ第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンである。
1865年。南北戦争は4年目に突入していた。長く続く内戦は国内を疲弊させ人々は一刻も早い戦争の終結を願っていた。しかしリンカーンは「合衆国憲法修正第13条」を下院議会で批准させる決意を固めていた。たとえ奴隷制を完全に撤廃させるためのこの条項が原因で戦いが長引くことになっても……。
映画『リンカーン』への戸惑い
スピルバーグの最新作『ブリッジ・オブ・スパイ』を見ていて、トム・ハンクス演じる弁護士ジェームズ・ドノヴァンの憲法を信じるがゆえの強かな戦略的合理主義の描かれ方に同監督の『リンカーン』を思い出した。
人々に親しまれた弁護士「エイブ」と歴史的偉業を達成した「リンカーン」、ユーモアの中の強さ、飄々としているのに芯がある大統領の姿を体現したダニエル・デイ・ルイスの演技に終始圧倒される映画だ。
しかし物語が進むにつれて南北戦争やリンカーンの思想をいかに表層的にしか理解していなかったのかを実感し強い戸惑いを覚える作品でもある。
つまり「奴隷解放宣言」から実際の奴隷制撤廃を認める憲法改正までの動き、さらに「黒人解放」という問題まで南北戦争末期の複雑な利害が絡みあうアメリカを束ねたリンカーンを本作は決して清廉潔白な人物には描いていない。
「奴隷解放宣言」と憲法改正、そして黒人の権利
簡単にいうと「奴隷制」を撤廃するのは認めるが、そこから先の黒人の権利拡大までを射程にしているかどうかまで含めるとその立場は当時のアメリカにおいては少数派であった。
黒人の権利を拡大するところまで話を広げる思想は当時リンカーンの所属していた共和党の中でも「急進派」と言われていたのである。
本作のなかでのリンカーンはそのため、あくまで現状における「法の下での平等」として奴隷制の撤廃を目指していることが強調されている。
彼が出した「奴隷解放宣言」はあくまで戦時条項における「宣言」なので戦争が終結したら先送りにされてしまう可能性があり、そのためにも「修正案」を下院で可決し憲法の改正を果たさねばならないことが彼の目的なのだ。
だから黒人の権利拡大は先送りに。そういう決断をリンカーンはとる。
政治的合理主義による妥協
戦争を一刻も早く終わらせて「修正案」より先に南軍と和平をしてもらいたいと考える共和党内部の一派、修正案に反対する民主党、そして「修正案」をより純粋な黒人解放という形で進めたいと思っている急進派、リンカーンは自身の理想のため彼らの立場を切り崩していく。
反対派には南北戦争が終わったら良いポストをやろうと言ったりロビイング活動をバシバシと仕掛ける。義務教育で語られるような清廉潔白な偉人ではなく合理主義的精神を持ち合わせたグレーゾーンのリーダーとして周囲に働きかけていく。
なかでも一番心に残るのはトミー・リー・ジョーンズ演じるスティーブンスとの対話である。
彼は急進派の議員だ。つまり奴隷制廃止の先にある黒人の権利拡大を目指している。
スティーブンスにとって黒人の権利を白人と同等に扱わない「法の下の平等」としての奴隷制廃止を認めることは「人間はすべて平等」だと主張してきた自分の生き方を変えることになってしまう。
今の私たちはスティーブンスが正しいことを知っている、リンカーンもそれが正しいのを知っている、しかしその正しさは過度な「変革」を恐れる当時の状況では受け入れられない。二人の対話はそこを妥協できるかどうかが焦点になる。
スティーブンスは苦悩し、そして異なる立場で議論を戦わせてきたリンカーンの熱意にうながされ目的のために「いま」何をあきらめねばならないかを決断する。
リンカーンの理想、その後の現実
本作は奴隷解放宣言やゲディスバーグの演説が終わったあとから始まり、リンカーンが殺される場面も直接的に描かれることはない。だが理想を実現するためには何が必要なのか、政治は一枚岩ではいかないからこそ解決を図るときに何を目指すのかという現実を見据えたうえでの「したたかさ」について描いている点が面白い。
そして、この作品を見た人は『声をかくす人』という映画もまた見てほしい、物語はまさにリンカーンの暗殺直後から始まり、理想なき現実主義者が憲法を曲解し犯人とその家族をどのように裁いてしまったのか、リンカーンの理想とはかけ離れたその後のアメリカが描かれている。
映画『リンカーン』の理想と、『声をかくす人』に描かれたその後の現実、両方の作品を見ることはいまを生きる自分たちにもとても重要な示唆を与えてくれる。
「In times of war, the law falls silent(戦時には法は沈黙する)」
検察官が主人公に言う。主人公はそれに対してこう答える
「そうあるべきではないです」、と。
(映画『声をかくす人』より)
声をかくす人 (字幕版) | ||||
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